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2002年12月のバックナンバー

2002年12月01日

根津小学校開校105周年

 私の母校である文京区立根津小学校が開校105周年を迎え、この日、 記念式典や同窓会が行われました。午前中の式典・児童による発表会やPTAの演奏会などに引き続き、 午後からは同窓会が行われるなど、時代を超え根津小に関わった多くの方々が集い、喜びを共にしました。
明治30年開校当時は、児童37名・教職員3名での出発だったと聞いています。その後年々児童は増え続け、昭和初期には、 実に1000名を超える在校生を抱える時期もあったとか・・・。(校舎や学校の敷地面積からすると想像を絶しますが・・・。)
そうした歴史を振り返ってみるならば、現在の児童数は200名を切っており、現状は寂しい限りですが、子供達の元気な様子を見ながら、 小規模校としての根津小学校の良さや特徴が発表会などを通じ映し出されたような気がしています。 午後の同窓会には卒業生やOB教職員の方々など100名近く出席されましたが、20~40代の若い世代の参加が少なかったことは残念です。 母校への愛着も世代によって異なるのでしょうか?この日、同窓会の新たな役員も紹介がされましたが、新しい執行体制のもとに、 若い世代の意識の高揚や参加が促されることと思います。期待をすると共に私も是非とも協力していきたいと思ってます。

2002年12月04日

総務区民委員会

 昨日そして本日の2日間に渡り、総務区民委員会が開催されました。
特別区住民参加型ミニ公募債発行の取り扱いについて他、6件の報告事項に対する質疑に続き、付託議案審査4件(条例案1件、事件案1件、 予算案2件)、付託請願審査10件が議題となり、質疑および審査が行われました。議案審査のうち議員提出議案である 「男女平等参画をすすめる条例」については、概ねその必要性については理解はできるものの 「他の自治体にみられるよう時間をかけて検討すべき。」「広く区民の意見を聞く必要がある。」 「現在導入検討中の区民憲章との関係について整合性を図る必要性がある。」などの意見により「否決すべきもの」と決しました。また、 補正予算については「ごうら荘」のポンプ改修工事や井戸のくみ替えに経年的に費用がかかっていることも指摘され、 経費節減に努めるよう要望がなされました。また、請願審査においては 「小規模住宅用地および非住宅用地における固定資産税または都市計画税の軽減措置の継続を求める」2件について、採択され、 意見書として都知事に提出されることとなりました。各議案については、6日議会最終日、本会議において採決されることになっています。

2002年12月06日

第4回区議会定例会閉会。

本日、平成14年第4回区議会定例会が全ての審議を終え、閉会しました。
補正予算や条例案など区長提案18件の議案や、議員提出議案である議員報酬に関する特例条例や意見書など9件、 あわせて27件の議案が議決されました。

2002年12月09日

市町村合併について(総務財政委員長会研究会)

 特別区総務財政委員長会の研究会に出席しました。テーマは「市町村合併の現状と課題について」。 講師の山崎重孝氏は総務省行政局市町村課行政体制整備室長として実務に携わっており、市町村合併の現状を知る上で貴重な研究会でした。
現在、3218市町村のうち約半分の1546市町村が人口1万を切っており、このまま合併せずに推移すると、 2030年には人口5千未満の市町村数が現在の710団体から1164団体へと急増すると予想されています。 行政サービスの効率化や地方財政基盤の強化という観点からするならば、国としてもなるべく早い時期に合併を推進したいという立場でしょう。 そこで合併重点支援地域を指定し、市町村合併に関する特例法の期限、平成17年3月までに合併をすれば、 財政措置を含め支援をしていくという積極的な動きが見られます。それらを受けて、地方においても47都道府県において「市町村合併支援本部」 が立ち上げられているようです。
 注目すべきは、特別区23区も例外ではないということ。平成11年に施行された 「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律一部施行令」では東京23区も合併の対象とされています。
「日本の顔でもある東京23区が、財政規模、人口規模等その自治能力がバラバラであっていいのか?課題がある」 と山崎氏は厳しい指摘をしています。各区がそうした認識をもって自主的に合併をし、規模能力をそろえてほしいと考えているようです。しかし、 そう簡単にはいかないのが現状でしょう。勝手に好きなもの同士が合併すればいいという問題ではないし、 23区においては財政調整制度や広域的事務を扱っていく上での東京都の関係もあります。こうした、 問題をクリアするためには相当な時間と議論が要するものと考えます。
しかしながら、将来の東京23区のあるべき姿を考えるならば、避けて通ることのできない課題でもあるし、これらが実現しなければ、 真の意味での「基礎的自体」としての地位が確立ができないのかもしれません。現状と認識のはざまの悩ましい問題です・・・。

2002年12月11日

防犯教室(備えあれば憂いなし・・・)

 千駄木二丁目西町会の防犯部の主催による「防犯教室」がこの日、 文京八中のミーティングルームで開催されました。地元駒込警察防犯課や錠を扱う専門業者の方々の協力を得ての、 ひったくりやピッキング対策を中心とした講習です。
最近は犯罪が凶悪化している傾向もあってか、空き巣も、ドアを壊したり、窓ガラスを割っての侵入など大胆な犯行が横行しているようです。 年末年始は要警戒です。しかしながら、ドアや施錠のちょっとした工夫によって、狙われる可能性も低くなるとの事。 そうしたノウハウや事例をまじえながらの講習に、集った人たちも熱心に聞きいっていました。特に旅行など長期に渡って家を空ける場合は、 必ず近くの交番や警察の防犯課に連絡を入れるようにしましょう。パトロールを強化してくれるそうです。また、 場合によっては簡易的な防犯装置も貸し出し設置してくれるということです。そんな、耳寄りな話も聞くことができました。

2002年12月15日

忘年会(サンデーズ納会)

 地元のソフトボールチーム「根津サンデーズ」の納会を兼ねた忘年会がこの日、行われました。 今年の成績表を眺めながら「あの試合はこうだった、とか、監督の采配が悪かった」とか、 それぞれ好き勝手なことを言いながらも楽しいひとときとなりました。今年はシーズン通して雨の日も多く、 試合数が少なかったようです。
その影響か、文京区大会でもあわやの2回戦敗退と、悔やまれるシーズンでした。
まぁ何よりも、いつも元気に仲良くプレーが出来るのが一番。来年も頑張りましょう。

2002年12月18日

思案のしどころ・・・?(医療改革試案示される。)

 昨日、厚生労働省が医療保険制度改革の試案を公表しました。ことに膨らむ高齢者の医療費を誰が負担するのかを巡っては「助け合い型」 と「独立保険型」の2案が示されたわけですが、関係者間の利害対立、溝深く・・・といった様相です。
文京区においても国民健康保険の運営は非常に厳しい舵取りを強いられており、毎年保険料の値上げや、一般会計からの繰入金の増加など、 区政の大きな課題となっています。そのような現状を鑑みるならば、 今回示された政府管掌保険と国保の都道府県単位に再編するという点については、大いに賛成できると思っています。
また、単に国保の負担だけを考えるならば坂口試案と呼ばれる「助け合い型」で負担調整を図っていくほうが良いのかも知れません。しかし、 若年層の負担増や高齢者医療費が全体の医療費の3分の1を占めるといった実態を考えるならそうは簡単にはいかないでしょう。
 年間30兆円にもおよぶ医療費は20年後には80兆円近くにも膨れ上がると予想されています。少子高齢化が加速していくなかで、 保険という形だけで対応できるのか?医療費の増大をどうとられていくのか?まさに思案のしどころです。
特に、私達若い世代にとっては不安は大きいと言わざるおえません。

2002年12月25日

子供夜警(小学生が町内パトロール)

 毎年恒例の「子供夜警」この日も20名ほどの小学生が集い、 千駄木二丁目西町会青年部の付き添いで町内パトロールが行われました。約1時間ほど町内を回って歩いた後、 千二会館で駆けつけた本郷消防署長や煙山区長から激励の挨拶も・・・。
寒い中での夜警となりましたが、児童達には良い経験です。「自分達の街は自分たちで守ろう。」とそんな意識の高揚につながることと思います。

2002年12月26日

故飯村恵一台東区長に捧ぐ

 飯村恵一台東区長が急逝されました。この訃報を聞き大きな驚きとショックを受けました。飯村氏には私がまだ議員になる前、 鳩山邦夫代議士の秘書時代からお世話になっていました。(今から15年以上前のことです。当時、飯村氏は都議会議員でした。)
 大変厳格な人でした。頑固な一面もありましたが、澄んだ心の持ち主でした。演説は上手かった。後援会組織は鉄の結束で、従って、 選挙も強かった。政治家としては極めて安定感のある人でした。
私は飯村氏から実に多くのことを学びました。政治の道を歩んでいく上でのノウハウというか知恵というか、 実際に教えてもらったわけではありませんが、様々な経験をさせてもらったと今、感じています。
秘書の仕事といっても、選挙区担当(浅草地区)でしたから毎日が選挙運動であり、政治を現場で学ぶ実践の場でした。そんな中で、 飯村氏から吸収できた多くのことは、今の私の政治活動の土台となっていると言っても過言ではありません。 そうした飯村区長に何の恩返しもせぬままに、このような悲しい事態が起きたことが残念でなりません。
 本日11時、ご自宅からの出棺に参列させていただきました。棺の中には、選挙で使うタスキと手袋がご遺体の胸元に・・・。 涙を誘う光景でした。
区長に就任されてからは体調を崩されていると聞いていました。無理をして職務を続けられていたのでしょう。 休むことなく走り続けるのが政治家の宿命とはいえ・・・。あまりにも急だし、早すぎた。そう思います。
でも飯村恵一の名前は台東区政の歴史に大きな足跡を残しました。そして、 その遺志を継いだ方々が今後も台東区民のために尽くされることでしょう。
 20代から30代にかけての青春時代を下積みとして台東区に過ごし、学んだ私にとっては、飯村恵一という人は忘れえぬ人のひとりです。
こころからご冥福をお祈りいたします。合掌。

2002年12月31日

一年の終わりに(よいお年を・・・)

 いよいよ今年も終わりです。誰もがこの一年を振り返りつつ、新年に向けての思いをめぐらせている事でしょう。
不景気、テロ、拉致問題など今年を象徴するキーワードはマイナスイメージばかり、政治の責任も重いといわざる終えません。 末端でこの世界に関わる者として、来年も初心に帰り信頼される行動をとっていかなければと感じます。
 私にとっても今年は忘れられない一年となりました。この歳になって初めて、人生の本当の厳しさや、 苦しさを身をもって感じたような気がしています。でも、人生は苦しみや悲しみの連続、そう言い聞かせ、「めげない、負けない、あきらめない。 」そんな言葉を胸に来年も全力で頑張っていきます。ご支援よろしくお願いいたします。
どうぞよいお年を。

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