« 私の体験(「靖国」について考える2) | メイン | 小泉首相の公式参拝(靖国について考える4) »

2006年05月04日

東京裁判と戦犯の合祀。(靖国について考える3)

  昨日の続編です・・・。

 話を東京裁判に戻します。私は学生時代ゼミの教授から「勝者が敗者を裁くという到底認められない裁判だ!」 と東京裁判について教えられました。

 私自身も今でもそう思っています。

 戦勝国11カ国が裁判官となり、被告席には日本のみというのですから、どうみても裁判の形式をなしていません。 裁判だと主張したいのなら、戦勝国が原告となり敗戦国が被告となって中立国が裁判官の位置についてはじめて形式が整うといえましょう。

 端的にって報復裁判だったのです。

 また、裁判官の中で唯一日本の無罪を主張したインドのパール博士の主張も正論です。パール博士は「国家同士には交戦権があり、 他国に対する武力行使を犯罪とすることは不当である。」(当時の国際法)と主張していました。

 しかし現実的には1951年(昭和26年)に調印された日米平和条約(サンフランシスコ条約)の中で日本は 「東京裁判の判決を受け入れる」ことになります。不当なこの裁判を日本自身が認めてしまったということです。

 次に戦犯についてですが、サンフランシスコ条約によって晴れて「独立」の地位を得た日本は翌年早速「戦傷病者戦没者等遺族救護法」 を成立させて戦争犠牲者の遺族年金の保障制度を制定します。またその翌年には法改正によって、 いわゆる戦犯もこの法を適用することにしました。

 つまりこの時点で、戦死も戦傷病死も「戦犯による死刑」もすべて国家のために犠牲となったとし、 厚生大臣の認定により一切の差をつけないとしたのです。なおこのときから戦犯処刑という言葉はなくなり、公文書には「法務死」 と書かれるようになりました。

 これらに基づき1959年にはB・C級戦犯が靖国に合祀。紆余曲折の後にそれから20年後の1978年(昭和53年) にはA級戦犯も合祀されることとなります。

 これが東京裁判からA級戦犯合祀に至るまでの経緯です。

 合祀については私たち日本国民にとっては心情的にもまた手続き的にも納得ができる経緯ではありますが、 近隣諸国や国際的に果たして通用する論理だったのか?疑問が残ります・・・。

 内政干渉だと無視してしまうことは簡単ですが、今後日本が近隣諸国と友好を保ち、国際的にも信頼を得ようとするのであれば、 この問題をうやむやにせず私達国民自らの手で解決する必要がある。

 私はそう思います。

バックナンバー